三鷹市剣道連盟発足当時のこと

三鷹市剣道連盟発足当時のこと
(「50年のあゆみ」三鷹市剣道連盟創立五十周年記念誌より)

三鷹市剣道連盟が五十周年を迎えるにあたり、その発展に大きく尽力され連盟の発足当時を知る川上和泉先生、椎名村司先生、山崎龍蔵先生、竹下英五郎先生に直接お会いし、当時の発足経緯や昭和四十年ごろまでの活動状況について話を伺いました。

一.戦前から昭和三十年頃までの三鷹の剣道

三鷹では明治の時代から大沢近隣の近藤勇の生家近くにあった天然理心流の發雲館道場や牟礼にあった常喜館などで剣道が行われていたことが知られています。戦後は進駐軍によって剣道が全国的に禁止されていましたが、昭和二十七年に剣道が解禁となり、全日本剣道連盟の発足とともに剣道界はにわかに活気づいていき、多摩地区においても立川、八王子、武蔵野、日野などの市町村で相次いで剣道連盟が発足しました。

三鷹市においても昭和三十年代初頭には戦後の混沌とした社会状況から抜け出し、企業の工場などが拡張され、また小中学校や団地など都市化に伴う基盤整備が急ピッチで進行していました。当時、三鷹市内で剣道がどのように行われていたかは定かではありませんが、富士重工(大沢)、三鷹警察(下連雀)などに道場があって剣道師範の先生もいたことからそこに人々が集まっていたほか、その他の地区で有志が邸宅の土間などを整備して稽古に励んでいたようです。

椎名先生「昭和三十年代のはじめ頃は、剣道の「道場は富士重工の他は三鷹警察ぐらいしかなかったと思う。戦前から剣道をやっていた人たちがやっと剣道が再開できると喜んで、相手や場所を求めて行き来した。私が属した富士重工の道場には時々日本無線の反町さんや小島さん、それに鮫島さんなどがお見えになって一緒に稽古したこともあった。また東京天文台に研究員として勤めていた森下博三さんも夕方になると道場にお見えになっていた。」

川上先生「富士重工の道場で会社の昼休みや、仕事が終わってから稽古していたほか、それにあきたらず時々警察の道場にも出向き、曲山助教らと稽古した記憶があります。そこには加藤先生もいて子供たちを指導していた。とにかく当時は何も娯楽が無い時代で、よく稽古をしましたよ。」

二.三鷹市剣道連盟発足の経緯

三鷹市剣道連盟は昭和三十二年五月、会長に当時多摩商工信用組合理事長だった橋本利一先生が就任、副会長に加藤伊助先生、佐々木建夫先生、鶴岡泰司先生、理事長に森下博三先生(いずれも故人)を役員メンバーとして発足いたしました。

椎名先生「稽古が活発になるにつれ、全日本剣道連盟への登録と昇段審査を受験する機運が高まり、また当時すでに幾つかの市町村で剣道連盟が発足していたことから、必然の動きとして剣道連盟の発足の話が進んでいったのです。その中心になったのが加藤先生、佐々木先生それに富士重工の鶴岡先生clip_image004でした。地元の有力者である橋本さんに会長になっていただけたのは加藤先生の熱意が通じたおかげだと思いますよ。当時は会費を徴収するという時代ではなく、橋本会長はこうした事情を汲んでご自身の財をなげうったり、時には信用組合の会議室を使わせてもらったりして永年にわたって連盟の活動に大変協力していただきました。橋本会長ご自身は戦後、剣道の稽古はなされませんでしたが、青少年の健全育成にご尽力され剣道連盟の活動をかげで支えてくれたわけです。」

西東京剣道連盟の前身である多摩剣道連合会が発足したのは昭和四十年で、それより前は東京都剣道連盟に直接登録していました。西東京剣道連盟の二十周年記念誌によれば昭和三十年代に都剣連に直接加盟していたのは十五団体という記録が残っています。(その中には三鷹と富士重工の名が連なっています。)

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椎名先生「東京都剣道連盟への会員登録などの事務局は以前から多摩地区の実業団剣道で中心的存在であった富士重工剣道部の鶴岡先生が副会長としてその役割を担うこととなりました。また、今の西東京剣道連盟の前身である多摩剣道連合会(後の西東京剣道連盟)の理事も昭和四十年の連合会発足当初から勤めていらっしゃいました。また、もう一人の副会長であった佐々木先生はお医師ということもあり、各市町村の剣道連盟の先生方とも親しく、顔が利いたので多摩剣道連合会の一員として活動していく上でいろいろな機会で助かりました。特に多摩剣道連合会の事務局があった立川市の保健所長であった昭和四十年代には、大きな役割を果たしていただいたと思います。剣連として発足当時どのような行事を行ったかは今となっては記憶が残っていないが、三鷹は体育館の建設や市民開放が武蔵野など隣接の市町村に比べ遅れていたこともあり、合同稽古会をみんなで集まって行うなどの活動は少なかったように思います。もちろん試合は初年度から行いましたよ。でも剣連発足当初の役割は主として昇段審査の事務局の位置づけが強かったと思います。」

三.昭和三十年代の剣道事情

山崎先生「日本無線の先輩方が防具を担ぐ姿を見て、自分もまた剣道をやりたいなと思っていました。当時、防具は新たに誂えるとなると大変で、なかなか買えずにいましたが、それを見かねた母親が生命保険を解約してくれて、それで防具を買ったわけです。」

川上先生「昭和三十年代は会社をあげて剣道に取り組む姿勢が強く、中学卒業の新入社員全員に人格形成になるということから剣道を義務付けた時期もありました。また、週に六日間は自分も社員のご子息や地域の子どもたちに剣道を教え、会社としても剣道を根付かせようという機運が強かったのを覚えています。当時はテレビや塾などというものが無かったので最近の子どもと違ってみんなとても熱心に放課後の稽古に励んでいたと思います。また昼休みになると誘い合ったわけでもなく道場に集まってきて稽古や素振りをしていました。」

椎名先生「会社の仕事を定時に終え、残業も無く毎日稽古をしておりました。週に何回かは会社の道場に淳ちゃん(鶴岡淳先生)や油井君(油井仁一郎先生)が来て一緒に稽古した。会社がリストラをやった時期もありましたが剣道をやっていればクビにはしないから一生懸命にやるようにと当時の白川保男人事課長に言われ、それが励みになってやがては気がつくと鶴岡先生から剣道連盟の事務局の仕事も引き継いで行うようになっていました。」

川上先生「当時は体育館などなく、富士重工も最初は道場といえるものではなく、倉庫を改造したところでズック履きで行っていました。また、試合も現在のような形式ではなく、各地域の学校の校庭、神社やお寺などで地元の有力議員や市町村が主催した野試合や奉納試合に参加していました。思い出に残っているのは、深大寺や大国魂神社(府中)、杵築神社(武蔵境)、高幡不動(日野)、諏訪神社(立川)や御岳山などの試合(武蔵御嶽神社奉納剣道大会)で富士重工のメンバーとしてよく遠征しました。試合はもちろん土間で行い、賞金が出る大会もありました。土間はぬかるみがあったときは砂をまき、雨が降ると中止になる。そんな時代でした。」

山崎先生「日本無線には剣道部はあったが当時は道場がまだ無かったため、最初は三鷹警察の道場に通っていましたが、しばらくして子どものほかは大人が稽古することができなくなり、佐々木先生の計らいで反町さんや小島さん、それに一緒に稽古していた戸谷さん、鮫島さんなどと佐々木先生の自宅の土間に場所を移して稽古するようになったのです。」

椎名先生「他の市町村とも交流はやりましたよ。鶴岡先生が世話役になって立川、青梅、武蔵野、八王子と月一回の合同稽古を持ち回りでやっていました。特に武蔵野にはよくみんなで出稽古に行きました。そんな時には、加藤先生や戸谷先生や日本無線の反町先生、愛好会の佐々木先生などにも声をかけていた記憶があります。また、加藤先生や藤橋先生を中心として天然理心流撥雲館道場(大沢)での稽古会や橋本会長のご配慮もあり忘年会として熱海の岡本ホテルに一泊で出かけ、交流を深めていった思い出があります。」

竹下先生「戦後、剣道が禁止されていた時期にも鎖鎌などの古武道は続けていました。全剣連の発足を機に、剣道は原宿の鉄道会館の道場で再開を果たすことができ、そこに全国各地から人が集まってきました。とても熱気が溢れていたのを思い出します。昭和二十八年に三鷹に引越して来て、近くの佐々木建夫先生の自宅に通って稽古をしました。また戦前から興味があった薙刀をはじめようと直心影流・女流武術家の島田晃子先生のご指導を頂いた。」

四.昭和四十年代に入ってからの状況

昭和四十二年の三鷹市剣道連盟会員名簿によると会員数は百七十二名で所属団体は次の八支部からなっている。

・事務局所属
・近藤道場(撥雲館)
・防犯少年剣道部
・富士重工業剣道部
・三鷹市剣道愛好会
・日本無線剣道部
・三鷹二中OB剣道会
・日産自動車剣道部(旧プリンス自動車)

昭和四十年代も半ばに入ると、小中学校の生徒数の増加とともに市内各地域で三鷹武道館や小中学校の体育館を活動拠点とした富士見、竹水剣友会などの剣道団体も相次いで発足し、剣道人口が順調に増加し、稽古が盛んになりました。また、剣道連盟としての活動も活発になり、年三回の剣道大会や審判講習会、剣道技術研修会、合同稽古会など連盟主催の行事も市民体育館を利用して行われるようになりました。また、記録によれば昭和四十年代初めには毎月一回三鷹市教育委員会からの委嘱によって初心者剣道教室を開催していました。

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椎名先生「連盟発足の年から毎年、春に近藤勇の慰霊剣道大会を開催するようになり特に、富士重工や日本無線、プリンス自動車などの実業団や警察や消防署などが試合に
参加して行っていました。昭和四十年代の後半に入ってからは防犯少年や二中OBの子どもたちが育ち 対外試合にも勝てるようになったのが嬉しかったですね。淳ちゃん(鶴岡先生)や油井君なんか多摩の試合では暴れていたんですよ。その後も武道館、愛好会などの小中学生も育ってきたのでとても市内の大会も盛り上がっていきました。」

川上先生「三鷹武道館ができこの頃から加藤先生がいろいろ積極的に連盟の運営について采配を振るっておられたのを覚えています。」

山崎先生「昭和四十年代は日本無線の剣道部の部員も多かったが、会社での稽古が十分出来なかった時期で、三鷹消防署で師範だった菅谷時雄先生に週二回の出稽古をお願いしていました。その後は仕事が終わってから、武道館、愛好会、富士見など毎日どこかで剣道をする毎日でした。」

昭和四十八年、三鷹総合第二体育館に武道場ができたことから椎名先生や鶴岡淳先生が中心となって積極的に一般市民を対象とした剣道教室を開催し、剣道人口を増やすことに注力されました。その剣道教室が母体となって後に剣婦会や親子剣道会などが発足しています。さらに、昭和五十年代に入ってからは、子供たちの試合の数を増やそうと地域住民協議会と連携して井口や牟礼のコミュニティセンターで試合を行うようになりました。これらの大会は現在まで続いています。

(文責 馬庭昭弘)